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クリスマスにひとりぼっち?
リリア・ポッターズ

自分にとってクリスマスとは何を意味するのか、それは年を重ねるにつれ変わってきました。子どもの頃のクリスマスと言えば、家族で過ごす特別の休日、日曜学校で聞くクリスマス物語、雪が降る中の帰宅、大きなジャッファ・オレンジの入った茶色い紙袋、割って食べた丸ごとのくるみ、そして、まだ読んだことのない新しい本でした。

イエスを救い主として受け入れてから、クリスマスは、イエスの誕生と人々への善意とのメッセージを他の人にも伝えることを意味するようになりました。

さらに年月が経ち、結婚して子どもができると、クリスマスは新しい家族の伝統を築く時になりました。飾り付けをし、プレゼントを買って贈り、賑やかで和気あいあいとした家庭の雰囲気の中で、手の込んだクリスマスの夕食を準備して共に食べることなどです。

こういった過去のクリスマスのことを考えると、温かい思い出がよみがえってきます。ノーマン・ヴィンセント・ピールがとてもうまく表現したように、私の世界に不思議な杖が振られ、すべてがより優しく、より美しく見えるのです。

けれども、離婚をし、子どもたちも家を離れてからは、子に巣立たれた親になることや、クリスマスにひとりぼっちになることがどういうものなのかを知るようになったのですが、それに慣れるのは、容易ではありませんでした。

一人になってから初めてのクリスマスの朝、目覚めた私を迎えたのは、きれいに飾り付けられていても、人の声の聞こえない小さなアパートです。その日は義理の娘の家族から夕食に招かれていたので、付け合せの料理を作ることにしました。部屋のツリーの下に置いてある幾つかのプレゼントも、一緒に持っていって渡すためのものです。

自分で何も主催せず、子どもや孫たちに囲まれてもいないクリスマスというのは初めてのことであり、孤独感や寂しさがじわじわと押し寄せてきたので、私はその圧倒されるような気持と闘わなければいけませんでした。

訪問先では素敵な時間となり、息子夫婦や孫、そして嫁の家族とのひと時も非常に楽しく過ごせました。誰もいないアパートへ戻る時間になるまでは。車でひとり家路につくのはみじめなもので、帰宅すると、寂しさから涙が出ました。

静まり返ったリビングで腰を下ろし、コーヒーテーブルの上にあったクリスマスのギフトブックを手に取って、ページをめくりながら、イエスがこの世に愛と希望をもたらすため、いかに天のふるさとを離れて来られたかについて思いを巡らせました。

すると、そのクリスマスに孤独を感じていたのは私だけではないに違いないと気づいたので、涙を拭い、電話を取って、しばらく前に知り合った年配の女性の番号にかけてみたのです。話しているうちにわかったのですが、その人も家にひとりぼっちだったようで、私とおしゃべりができて喜んでくれました。

他にも、その日まだ話していなかった子どもたちや、海外にいる親類にも電話をしてみると、その幾人かにとっても、「完璧」なクリスマスではなかったことがわかりました。

私は、彼らに連絡したことで気分を持ち直し、このことを翌年のクリスマス、そして将来のクリスマスにもずっと覚えていようと、その時その場で決意したのです。

それ以来、私のクリスマスは全く違うものとなりました。ある年はボランティアをすることにし、何人かの高齢者がツリーや家を飾り付けるのを手伝いました。自分だけで飾り付けるのは大変だからです。他にも、孫たちと一緒にクッキーを焼いて、あまり訪問客の来ない近所の人たちに届けて回りました。

そして、会いに行けない距離にいる人と電話やFaceTimeアプリで話をすることで、いつも誰かの助けとなれるし、自分自身も相手の人も幸せな気分になります。

人生には思いがけないことが起こるものです。子どもが家を離れたり、離婚や死別があったりして、ひとりぼっちのクリスマスを過ごす時があるかも知れません。そういった状況に慣れるのは容易でないし、寂しさで涙を流す時もあるでしょう。

状況は人それぞれではあるけれど、それでも、クリスマスに一人でいることが、不愉快な経験である必要はありません。たとえ一人でいても、イエスが常に一緒にいてくださるので、完全にひとりぼっちということは決してないのです。それに、時間を取って他の人に手を差し伸べるなら、満足感と喜びが私たちにも返ってくるのですから。

時代遅れであろうがなかろうが、私の考えるクリスマスはとてもシンプルなものだ。それは、ただ他の人たちを愛すること。考えてみると、それをするのにクリスマスまで待つことはないね。

ボブ・ホープ

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