ストーリーもくじへ戻る

クリスマス・イブには
まつもとあきこ・作

「ねえ、クリスマス・イブには、家族でささやかなクリスマス・パーティーをしましょうよ。子供たちもきっと喜ぶわ。」

高橋浩一は、妻の洋子の言葉には答えず、「今日は遅くなるから」とだけ言って家を出ました。

師走だから忙しいのも当たり前ですが、この長引く不況に、いつ自分もリストラされるかわからない、そんな状況でした。一昨日も職場を去る同僚の送別会をしたばかりです。

豪華なクリスマス・ツリーが立ち、立派に飾り付けられた街の様子とは対照的に、通勤電車は相変わらず混雑していて、乗客たちの多くは、朝から疲れ切った様子でした。

浩一の思いは晴れませんでした。最近はずっとそうです。

「今会社を辞めさせられたら、家のローンはどうなる。子供たちだって、まだ小さいじゃないか。」

けれども、会社に着いて、コートを脱ぐのもそこそこにパソコンのスイッチを入れて電子メールのチェックを始めると、その日の仕事に没頭したのでした。

午後3時前、机の前の電話が鳴りました。警察からでした。

「実は、先ほど奥さんが交通事故にあい、市民病院に救急車で運ばれました。意識不明の重体です。」

思わず椅子から立ち上がりました。

「まさか、まさか・・・」

病院に駆けつけるまで、『これが夢であってくれれば・・・。今朝、あんなに元気だったじゃないか・・・』と幾度も思いました。

病室に横たわる洋子の身体は包帯が巻かれ、様々な医療機具につながれていました。洋子は交差点で信号無視のトラックにはねられたのです。道路に強く頭を打ち付け、腕も骨折していました。

「できるだけのことはしています。たいへん危険な状態です。たとえ意識が回復したとしても、重度の後遺症が出ると思われます。」

とにかく、学校に行っていた子供たちは、実家の母親に迎えに行ってもらい、しばらく預かっていてもらうように頼みました。

意識の戻らぬ妻をじっと見ていた後で、浩一は、ふらふらと病院の外に出ました。ほとんど放心状態でした。通行人がけげんな顔をしながら、通り過ぎて行くのも気がつかないくらいに。

「頼むから、生き延びてくれ・・・。元気になったら、一緒にやりたかったことを何でもやろう。子供たちだって、母親が必要じゃないか・・・」

気づかぬ内に妻に話しかけていました。

ふと、洋子が最近クリスチャンになったことを思い出しました。洋子が読んでいた聖書を自分も幾らか読んだことがありました。確かに、いいことが書いてあるようでしたが、宗教など、ひまな人間か弱い人間がやるものだ、と考えていました。大体、そんなことにクビを突っ込むヒマがあるなら、もっと働いて会社や世の中に貢献すればいいんだ、と。

けれども、今、なぜか「神」のことを考えていました。

「神はいるんだろうか。こんな人間の祈りでもきいてくれるのだろうか。いや、そんなこと、ムシが良すぎる。これじゃ、苦しい時の神頼みじゃないか・・・。大体、いるかどうかもわからないものに頼んでどうなるっていうんだ。」

しかし、心の中で誰かが祈ることを勧めているように思えてなりません。ベッドに横たわる洋子の姿が思い浮かびました。洋子は自分に祈ってほしいのだろうか・・・。

ついに、浩一は心の中でこう祈りました。

『神様、あなたが本当にいるのなら、この祈りを聞いてください。洋子の命を救って下さい。』

その時でした。まったく季節外れの蝶が、どこからともなく現れたのは。その鮮やかな紫色の羽根には美しい水色と白の模様が入っています。子供の頃に、よく昆虫採集をしましたが、そんな美しい蝶を見たのは、初めてです。

さらに驚いたことに、ひらひらと浩一のまわりを舞う蝶が自分に何かメッセージを伝えているようなのです。その内容は、浩一の心にはっきりと伝わりました。

『あなたの祈りは聞かれました。奥さんは助かります。』

あっけに取られてはいたものの、心には不思議な温かさと安らぎが訪れました。こんなに絶望的な状況なのに、自分も洋子も誰かに深く愛されている、そんな気がしました。

それから、5日後。

病院にやって来た浩一の姿を見て、すぐに医師が駆け寄ってきました。

「ああ、奥さんが意識を取り戻しました。一体何が起こったのか、現代の医学では考えられないことです。私は宗教は信じないのですが、これは奇跡としか言いようがありません。脳の損傷も認められません。」

あわてて病室に入ると、洋子に呼びかけました。かすかに首を動かした洋子の目は微笑んでいました。洋子はか細い声で、「あなた」と言いました。

「無理に話しちゃだめだ。」

「あのね。私、とてもきれいなお花畑にいたの。そこに美しい蝶がいたのよ。ひらひらと私のまわりを飛んでいたの。とても幸せだったわ。でも、そこに光輝くイエス様がいて、まだここに来る時ではない、家族のもとに戻りなさい、と告げられたの。」

その言葉を聞いて、胸がいっぱいになりました。

「さあ、少し休んだほうがいい。」

やさしく声をかけながら、思わず、「神様、ありがとう」と、つぶやきました。

やがて、洋子は退院し、クリスマス・イブが訪れました。その日、浩一は急いで帰宅しました。家族一人一人へのプレゼントを手にもって。子供達とリビングに集まった時、まだ包帯を巻いているものの、前と変わらぬ明るい笑顔の洋子を見て、浩一は、胸がいっぱいでした。今年、母親のために子供たちが一生懸命飾ったクリスマス・ツリーには、お決まりのデコレーションのほかに、白と金色の衣を着た天使たちが下がっていました。

洋子は言いました。「さあ、『きよしこの夜』を歌いましょう。クリスマスはね、神様のひとり息子、イエス様がお生まれになった日なのよ。」

その時、浩一はツリーの一番上のあたりにある飾りに目をとめました。それは、あの鮮やかな紫色で青と白の模様の入った蝶の飾りでした。どうしてそこに・・・。でも、考えるのはやめました。今は、家族といられるという喜びでいっぱいでした。そして、感謝の思いがこみあげてきました。

『神はいるんだ、こんな自分の祈りも聞いてくれる、広くて温かい心をもった神が。』

↑ PAGE TOP